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休職していた時のこと

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僕が体調を崩して休職していた時のこと、毎日朝食を食べて妻を送り出した後、10時くらいに近所の市民センターのジムに通っていた。築30年以上の古びた建物で、エレベーターはごとんという音を立ててゆっくりと上昇していく。ジムは3階にあり、一回300円。

市営ということもあり、設備はどれも古かった。最低限の機能だけがついたランニングマシンが3台並んでいて、いちばん右側の機械にはたいてい「故障中」と書かれたわら半紙が貼られていた。

印象的だったのは受付の男性。おそらく20代後半で身体はがっちりしているけれど、顔色は悪く陰気な印象を他人に与えるタイプ。彼に券売機で買ったチケットを渡すと、顔色ひとつ変えずに「2時間です」とだけいつもぼそっとつぶやいた。

休職中の平日はほぼ毎日このジムに通っていたのだけれど、この受付の男性の対応は全く変わらなかった。こちらのことを覚えていない、というか、そもそも関心がない様子だった。

でも、僕にとってはこういう素っ気なさ、というか無関心がありがたかった。30歳を越えた男が平日の午前から街を歩くというのは、自意識過剰ではあるのだけれど、どうしても人の目が気になった。

でも、このジムの男性は、そんなことはどうでもいい感じだった。いつも無表情で感情の変化が読み取れない。毎日チケットを受け取り「2時間です」とだけ呟く。そこに意味を感じさせない、ただ淡々としたやり取りで済むことがありがたかったし、だから毎日欠かさず通うことができたし、余計なことを考えずに身体を動かせたことはとても良かった。

ジムの真ん中には大きなマットが引いてあり、大型のテレビが一台置いてあった。僕がランニングマシンで走り、筋トレも一通り終えて、そのマットでストレッチしていると、テレビではいつもワイドショーが流れていた。

その時間に市営のジムにいるのは、ほとんどが老人で、僕の横でぼんやりとした顔をしながら同じテレビを見つめ、骨が浮き上がった腕や足をゆっくりと伸ばしたり曲げたりしている。

老人たちの虚空を見つめるような表情を横目に感じつつ、僕はいつもイヤホンで音楽を聴きながら身体を動かしていた。決して大きくないジムスペースだったが、大きめに作られた窓から入ってくる光を頬に感じる。

そして、その頃の僕はいつも、なぜここにたどり着いたのだろうと、過去に自分の取った行動やその結果起きたことを反芻しながら考えていた。それは「後悔」というものとも少し違っていて、仕事や私生活で自分が「下した」意思決定の連鎖が自分をどうやってここまで連れてきたんだろうと、しつこく考え続けていた。

それぞれの場面では、自分なりによく考えて決断したこともあれば、場の雰囲気に流されてなんとなく決めてしまったこともある。でも、不思議なのは、そのいろいろな形でなされた意思決定の連なりの結果として、いま自分がここに辿り着いている、というのがピンとこなかったことだった。

まるで「平行世界」に迷い込んでしまったかのように、自分がその場面にいることの根拠みたいものが揺らいでいた。

いま振り返れば、きっといろいろな感情を「閉じ込めよう」としていたのだろうと思う。休職に至るまでに、辛いことも多かった。抑えのようのない怒りと、それを許さない状況。いくら悲しくてもそれをうまく表現できないもどかしさ。

それらをうまく消化する技術も気力もなかったので、そこは「とりあえず」蓋をして、過去起きてしまった「こと」に対して、執拗に、けれど意味付けせずに反芻していたのだろう。

ジムに通い始めて数週間が経った頃、いつものように一通りのトレーニングとストレッチを終えて出口に向かおうとすると、あの受付の男性がにんまりと笑っていた。無機質なジムの空間に、いつも感情をどこかに置いてきたような顔をしたあの男が。その笑顔は僕の記憶に鮮明に焼き付けられていて、その頃のどこかに「迷い込んでしまった」ような感情とセットで時々思い出すことがある。