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僕のメンターだったSさんのこと(注:加筆・修正したものを東洋経済オンラインに「48歳で課長になれなかった男の「以後の人生」 」のタイトルで掲載しました)

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【注】この記事を加筆・修正したものを、東洋経済オンラインに2018年2月14日「48歳で課長になれなかった男の「以後の人生」 」のタイトルで掲載しています。

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僕のメンターだったおじさんの話をツイートしたら、結構反響があった。もう少し書いてみようと思う。その人はSさんとする。

僕が新卒で入社したのは創業100年を超える老舗のメーカーで、配属は新規事業の海外営業部だった。そこでメンターとしてついたのがSさん。普通メンターって若手~中堅くらいの人がなるのだろうけど、そのメーカーは日系企業のご多分にもれず40代以上が非常に多かったため、面倒見がよさそうなSさんが選ばれたのだと思う。彼はその時既に43歳で「課長代理」だった。

Sさんはドがつく真面目な人で、髪は七三にきっちり分けて、昭和なデザインのスーツを毎日きっちりと着てくる人だった。仕事ぶりも本当に真面目で、毎日遅くまでこつこつと営業資料を作っていた。はっきりいって不器用で、ムダなところまで丁寧な感じだったけどそれが長年培った彼のスタイルだった。

Sさんとはよく外回りに出かけた。外回りの時って本音の話が出てくるもの。彼がいつも言っていたのは、こんなボヤキだった。「Tくん、僕はねえ課長になりたいんだよ。なんとかなれないかなあ。」

おいおい新人に何言うんだよって感じだけど、これには背景がある。僕のいた新規事業は、日本企業ならではというか、各部署で疎まれてお払い箱になったり、あまり評価の高くない人達が集められていた。それでも、開発部門が画期的な技術をベースに競争力のある商品を生み出していたし、事業部長のそれにかける情熱はすごかったので、うまく成長軌道にのって売上は倍々ゲームの形で伸びていた。

そうすると、会社側も期待し始める。主流部門から人が異動し始めてきて、そこにはSさんの同期も数人いた。その同期はみな「課長」だった。

Sさんは、あからさまな野心を見せる人ではなかったけれど、これはさすがに悔しかったのだろうと思う。実際その海外事業は、彼が商社を粘り強くサポートすることで大きく伸びていた。Sさんは毎晩遅くまでその商社のために資料を作り、一緒に海外出張して商品を説明し、献身的に努力をしていたのだった。なのに、結局よその部署から来た同期は課長として彼の「上司」になっていた。

「課長になりたい」というボヤキはそんなところから来ていたのだと思う。でも、Sさんは、それで腐ったりはせずに、持ち前の真面目さ(不器用さ)で毎日仕事に向き合っていた。ひとつ今でも印象に残っているのは、彼が英語を勉強し始めた時のこと。

Sさんは英語を昔からこつこつ勉強していたようだったけれど、はっきりいって仕事で使うレベルからは程遠かった。僕は一年間アメリカに交換留学に行っていたので、彼に英語の資料チェックを頼まれることがあった。見てみると全部自分で書きなおしたほうが早いくらいだいぶひどかった。。

それで一念発起したSさん。英会話学校のジオスに通い始めた。ある日英会話学校どうですか、と聞いてみると、いつもの調子で頭をかきながら「いやー、Tくん、大変だよ。宿題が本当に多くてね。全部やるのに週末をつぶさなくちゃいけないんだよね。」と答えた。

これには本当に驚いた。英会話学校の宿題を完璧にこなして、きちんと通っている人なんて見たことなかったから。大抵の人は入学しても結局ちゃんと勉強せずにフェードアウトしていく。でも、Sさんはこの勉強を結局1年間続けて、ライティングだけでなく、スピーキングも格段にうまくなっていた。彼が海外のお客さんと、日本語訛りながら前より断然と流暢に英語を話す姿はちょっと感動的だった。

では、こんなSさんはその後課長になれただろうか?なれなかった。その新規事業は急速に成長したものの、競合も一気に参入し価格競争が激化。結局その関連事業と共に他社に売却されてしまった。Sさんもそのまま他部門へ異動になっていたが、彼はそこである決断を下す。25年近く勤めたそのメーカーを退職して、非上場の小さなメーカーに転職したのだ。昔同じ部門で上司だった人に誘われたらしかった。

もといたメーカーは曲がりなりにも大企業で、Sさんもその会社を愛していた。そこから、一般的には知られていない小さな会社に移ったと聞いて僕は正直心配した。実際のところ、新規事業の事業部長の定年を祝う会で久々に会ったSさんは、顔色も悪く本当に大変そうだった。「いやー、Tくん大変だよ。徹夜して資料作ることも多くてね。この歳できついよ。いやー大変だよ。」って、あの前と同じ真面目さのにじみ出る調子で話していた。

それから数年。Sさんが海外駐在が決まったと人づてに聞いた。アメリカのサンフランシスコらしく、待遇は事業部長とのこと。これを聞いて僕は震えた。Sさんは、いつも「課長になりたい」と言っていたと書いたけど、あともう一つ、「駐在したい」とも言っていた。新人だった僕は、正直言って、いい歳してなんでそんなこと言うんだろうと思っていた。でも、Sさんは、決して諦めずに、誠実に仕事をし続けて、英語も独学で学び続け、そして50歳を間近にしたところで長く勤めた大企業を辞めるというリスクも取った。その結果として、彼は自分が人生で欲しいと望んだものを、彼のやり方で掴みとったのだ。

去年SさんとFacebookで繋がった。メッセージを送るとすぐ返事があった。

「 Tくん、メッセージありがとうございます。そうなんです。今度の3月でカリフォルニア在住丸6年になります。今や日本より暮らしやすいと感じます。」
僕がシリコンバレーの会社に転職して本社がサンノゼにあると伝えると、こんな返信がまたすぐ返ってきた。
「それはそれは!すばらしい!シリコンバレーは私たちの生活圏内です。その節は是非私のメールに連絡ください。Tくんのことだから、そのうち本社に転勤になって、アメリカの永住権も取ったらいいよ。良い年になりそうですね!」
 真面目で、人のことをいつも気遣っていて、笑顔を絶やさないSさんには、サンフランシスコの太陽はよく似合う。彼のことを思い出すたびに、僕の人生はまだまだこれから楽しくできるよなと改めて思う。