グローバル経営の極北

グローバル経営の極北

日系メーカー、米系IT企業を渡り歩いてきた経験をもとにグローバル経営について語ります。Twitter(@nori76)もやってます

ぼくの就活について '00年ロッキング・オン社新卒採用応募書類

ありがたいことに多くの方にブログを読んで頂いていて嬉しい限り。少し箸休め的に僕の就活について。

巡り巡っていまはIT産業で働いているけれど、僕の就活の時の第一希望は出版社だった。その中でも第一希望だったのがロッキング・オン社。洋楽人気も落ち込んでいるし、いまはフェスの「Rock In Japan」の主催者としてのほうが通りがいいかもしれない。

ただ、僕の高校生の時には、ちょうど米ではNirvana、英でもOasisなどをはじめインディー・ロックを代表するバンドがたくさん生まれており、雑誌としてのロッキング・オンも非常に勢いがあった。僕はどちらかというと「クロスビート」派だったのだけれど、ロッキング・オンは社員=編集者で、彼等の書く主観的ながら深くロックを掘り下げていく文章は魅力的で、高校時代は良く読んでいた。

で、就活の時に戻ると、ちょうどその年にロッキング・オンは新卒応募をかけていた。これはいいチャンスだと思い、他の企業とは段違いの真剣度で準備した(大宅壮一文庫に通って過去のバックナンバー徹底的に読み込んだ)。ロッキング・オンの選考はまさに「らしく」て毎回提出課題があって、小論を書く必要があった。今読むと青くさくて恥ずかしいけれど、かなり力を入れて書いたし、それぞれの文章は文体含めて結構気に入っているので以下公開したい。

 まず書類選考時の提出課題。サニーデイ・サービスは大学時代本当によく聴いていて、「サマーソルジャー」はいま聴いても心がざわざわする至高の名曲。文章はその年に発売されたアルバムから一曲選んで書いた。

課題作文「この一年、私にとってのこの1曲」

サニーディーサービスのアルバム「MUGEN」のサイン・オンについて書く。曽我部が描く世界は、その多くが、一組の男の子と女の子の小さな物語だ。サイン・オンもそうだ。けれど、その世界には、二人の愛の高揚感ではなく、喪失感がこびりついている。例えばこんな一節だ。

  高鳴る心は寄せては消える夢のよう
  手にした次の瞬間にはなくなるものだから

このきわめて詩的で美しい部分が、これ以上ない美しいメロディを携えて流れたとき、ぼくの心は動く。それは、二人の愛が今ここにしか存在し得ず、過去も未来もないからだ。

しかし、その関係は、椎名林檎が描くような切迫感に溢れたものではない。二人の間にはどうしようもない喪失感が横たわっているのかもしれない。けれど、それは愛し合ったその最初から共有されたものだったのだ。

だから、その事実に対して、語り手である「ぼく」は否定も肯定もしない。愛は、夢のように記憶に定着しないまま失われてしまうかもしれない。だが、そんなことは折込済みなのだ。これをペシミスティックな表現と受け取ってはいけない。仮にそう捉えたならば、なぜこの楽曲がこうまでロマンティックなメロディとともにあるのかを見失う。

ここで恋愛がいつだって両義的であることを思い出そう。愛し合う二人は、その至福の時がいつまでも続かないことを知っている。また、だからこそ、一瞬のこころのざわめきが何よりも大切なのだということも。ならば、サイン・オンがこうまで魅惑的なアレンジと、静かにたゆたうコーラスとともにあるのか、という疑問は解けたと言えるだろう。

それは、恋愛の渦中にある者が感じるどうしようもない心の揺れを、きわめて忠実に写し取ったものなのだ。そして、その思いはいつもある種の哀しみとともにあるのだということを、曽我部は選び抜かれた簡潔な言葉で表した。音と言葉、そのどちらもが独立してあるのでなく、有機的に溶け合った素晴らしい一曲である。

書類選考を無事通過し1次選考時の課題。お前ほんとにロッキング・オン好きなんだなwという文章。この頃はナンバーガールの出現は本当に衝撃的で、米英インディー・ロック(特にメロディー&ノイズ)の歴史を一気に横断した感じの解釈に興奮したことを覚えている。

■ロッキングオンのいい点は?

1.対象への掘り下げが深く、またテーマ性を持った特集やインタビューが為されている点。例えば椎名林檎、降谷建志、ベック等批評性を強く持ったミュージシャンに対してのインタビューは、他誌に比べ、彼等の音楽に向かう姿勢を浮き上がらせると言う点で、際立って優れていた。
また、各誌で組まれる特集は、BUZZのダンスミュージックへの傾倒、JAPANのDRAGON ASH批評、ROCKINONのレイジ評など、その視点に賛否両論あるとしても、90年代後半の音楽を、ダイナミズムの復権、強度の獲得といった流れで捉えており、その姿勢は一貫している。

2.ヴィジュアル面の秀逸さ。中島英樹のアートディレクションは、非常にシンプルでありながら、写真の質感やテキストの配置など細かい点まで配慮が為されている。そのため各誌ともデザイン面でいい意味での統一感があり、また、スノッブさがなく手にとりやすいデザインとなっている。また、近年増加してきた単行本も、装丁を含めて、丁寧な、また美的に優れた物が多い。

3.編集者の個性が紙面に表れており、読者との関係性が濃密。編集者自らがテキストを書くことで、各誌とも何をしたいのか、どんな表現者を取り上げ、紹介し、論じていくのか、といった点が明確である。
また、各種コラムは同人誌的な部分を残す事に成功しており、読者からの反応を踏まえた上での雑誌作りは読み手にとって感情移入しやすく、それが各誌の勢いを支えている。例えば、BUZZ NIGHT、RISING SUN FES. の開催など読者が参加できるイベントへの積極的な展開も含めて、作り手と読者の共振の方向に進んでいる点が評価できる。

4.いい意味でのミーハ―精神。例えば、SIGHTでの執筆陣のように(稲葉振一郎、宮台真司など)各ジャンルで話題になっている個性的な人物を積極的に引っ張ってきて、自由に論じさせる。サブカルチャーからハイカルチャーまで編集者の判断によって対象が選ばれており、その手つきに躍動感が溢れている。対象への愛情が素直に出ている部分は雑誌を活性化させていると言える。

■ロッキングオンの問題点は?

1.雑誌点数の増加に伴う取材対象の重複。例えば、椎名林檎のように、ロッキングオン刊行のほぼ全ての雑誌でそのインタビューが行われるなど、取材対象の重複は読者に食傷感をもたらす可能性がある。JAPAN,BUZZ両誌で椎名林檎の音楽観、人生観が語られるなど、視点の違い、質問の違いはあれど、両誌に目を通す読者にとっては有効とはいえない。

2.洋楽シーンにおける主役の不在、多様化。ベック、オアシス、ケミカル、など大きな人気を誇るアーティストは存在するが、音楽の表現形態は完全に多様化しまた聞き手の嗜好も単一ではない状況で、ロックシーンを統一的に語ることが不可能になっている。そこでBUZZのような形のごった煮した雑誌が存在する訳だが、1でも述べたように、たとえばロッキングオンとの棲み分けなどの点で問題が残る。

■最近良かったCD,ライブ,本は?

CD ナンバーガール
私達が音楽を聞くのは、根本的に不可解な行為であるとはっきりと告げる名作だ。彼等の作る音は隙だらけだ。歌詞は意味不明で、聞いている限りでは具体的な像を全く結ばない。録音はラフで、ギターの音は軋んでいる。けれど、その音に触れた時こちらが自由な連想を駆け巡らせる事を可能にする音楽になっている。
ここに私はこのバンドの志の高さ、メジャーなバンドに見られないいさぎのよさを見る。多くのバンドが作る音はあくまで彼等の持つ衝動をそのまま音楽として表したものだ。悲しみは哀しげな音で。喜びは喜びの音共に。
ナンバーガールは違う。彼等は人間の感情なんていうものを統一的に音楽化できるなどとは思っていない。そうした複雑な感情は、一度全て混ぜ合わされ、雑然としたまま投げ出される。そうした出来た音は、聞き手に自由を与えている。彼等の音が多様な景色を呼び起こすのはそのためだ。彼等は安易な連帯を求めない代わりに、聞き手と作り手相互の自由が保障された音楽空間を作り上げている。

ライブ 電気グルーヴ
彼等のライブに行ったの初めてだったが、過去のアルバムからの曲をふんだんにちりばめた選曲は、昔からのファンにとって嬉しいものだった。新作が言葉と音の関係を考え尽くした上で生まれた、非常に力強いものだっただけに、ライブ全体を通して、その方向性が貫かれておりダンスミュージックの文脈より、ロックの文脈でその音を受け取った。
それはD.Jとして世界に進出した卓球の電気グルーヴの位置付けを示しており興味深かった。つまり、テクノというフィールドで自分の表現欲求を満たした上で、電気グルーヴという回路を通じて、音と言葉の関係を追求し、それをメジャーなフィールドで問うという昔から格闘してきた課題に対してしっかり向かい合っている部分を感じ取ることが出来たのだ。
一方で瀧の位置付けは難しい。彼の持つ笑いの要素、祝祭性は彼らにとってかかせないものだが、今回のライブではそれが少し浮き上がっているような気がした。音が分厚く、力強く鳴っている一方で、瀧の奮闘が少し空周りしているような面があったのだ。

本 柳田邦夫 「犠牲-サクリファイス」
もうだいぶ前に書かれた本だが、考えさせられる部分が多かった。著者の息子が、長い精神の病との戦いの後、自殺し脳死段階を経て死んでいった悲劇について書かれた本だ。特に、その息子が書いていた日記や小説が痛ましい。
それらはひどくナイーヴで内省的だ。しかしその表現は、誰もが体の深い底の部分に抱え込んでいる暗い闇の部分に触れており、簡単に目を反らす事が出来ない。殆どの人は自殺せず毎日を生きている訳だが、その陰の部分に真剣に向かい合ってしまう者もいるのだ。
脳死判定を受けた場面で、筆者の抱く思いは深い。脳死判断に関する部分などセンチメンタルを廃し、科学的な論拠を築くべきだと言う立花隆の著作に同意しつつ、息子が脳死となったその時、私に大切なのはそのセンチメンタルな部分だと彼は述べる。その感情が溢れ出した部分に私はただ打たれた。

■志望動機は?
ロッキングオンにおいて、編集者であることと読者である事は等価である。少なくともそうあるべきだ、と私は思ってきた。文句のある読者はそれをぶつける事が出来るし、それに対して編集者はうなだれる事も怒鳴り返す事も出来る。双方向のメディアが新しい、などと世間が騒ぐが、良質なメディアとは最初からそんな事は達成していると言えるし、ロッキングオンはそうした媒体で在り得ると考えている。
現在ロッキングオンが刊行している雑誌の扱うジャンルは多岐に渡り、其処に統一性を見出す事は難しくなっている。けれど、私はそれでもいいのではないかと考えている。ばらばらで、しかし力のある表現をそのままの形でカテゴリーに括らず受け止める。こうした態度を表明していく事が今までもこれからも求められ、それを自由に行う事が出来る場を考えた時、ロッキングオンが最もそうした力を持っていると思う。

 次は2次選考の課題作文。この時は2名の討論形式もあり、テーマは「宇多田ヒカルと降谷建志、今後のポップミュージックを担うのはどっちか?」という知らない人が聞いたら苦笑するだろう内容。ちょうどその頃西鉄バスジャック事件をはじめ17歳の犯罪がいくつか起きており、それがお題になっている。

課題:「17歳の犯罪。私が代弁する彼らの弁明」

「このよのすべてのせいめいたいがぼくのてきだっ」「今の僕はなんなのだろうか」

バスジャックの犯人の言葉だ。その幼い言葉使いの奥で、こんな呪いの言葉が響いてくる。俺の人生はめちゃくちゃだが、お前等のそのすました人生とやらも、ぐちゃぐちゃに腐っているのだ。すくすくと育って、自分が一番だと思って生きている能天気な奴等、おまえ達は奴隷のようだ。みんな死ね。

私は、彼らが何故殺人にまで至ってしまったのか、と答えの無い問題に頭を悩ませたくはない。共有できるのは、自分は何者なの?と問わなくてはやっていられない、そんな切実な問いかけだけだ。ここには、自分なんていう曖昧なものを実体化し、自己実現しなくてはいけないとプレッシャーをかけてくる何かがある。

例えば、学校で教師が求めるのは皆仲良く、自分を磨こう、といった、わかりやすい人間像だ。そんな場で少年は自分の存在の価値を問うてしまっている。同情はできる。こういう悩みは、思春期に必ずあることで、しかも少年はいじめられ、自分の価値を考える事を余儀なくされているのだから、と。

しかし、どうして私達はほんとうの自分、演技でない自分があるはずだと考えてしまうのか。そんな単一なのっぺりとした自己など存在せず、また到達も出来ないのはわかっているはずなのに。

「あなたには期待していないと親に言われ安心した。親が少年を休ませてあげていたら、事件は起きなかったのでは」高校生が新聞の取材に答えて言った言葉である。この認識は驚きだ。こういった子達はわかっているのだ。過剰に自分ってなんなのだろうと問い、それを学校や家庭で実践していく事の辛さを。これは、犯罪を犯した少年達への確かで、深い理解だ

この小文で私は、17歳の少年を犠牲者として描くつもりは毛頭ない。けれど彼等の残した幾つかの言葉は、私達の多くが陥っている自己実現願望の極点を示していると言ったら感傷的に過ぎるであろうか。

 3次選考もなんと通過してしまい、最終選考まで進んだ。約4000名の応募に対して、その年の内定は1名のみ。最終は3名まで絞られていた。結局残念ながら内定は得られなかったのだが、いまでもひとつひとつの場面を覚えている、とても印象深い就職活動だった。というか、渋谷陽一と何度も相対して話せただけでも嬉しかったです、すごく。以下が最終選考時に持参した文章。多分人生で一番気合入れて、推敲に推敲を重ねた文章と思う。

課題:「現在、世界の中で最大のニヒリズムは何か。また、それはどう乗り越えられるべきか」

現在世界で最大のニヒリズムは、同一の神話化した物語が延々と繰り返され、私達がそれを無批判に受け入れつづける事にある。私は本論で、ポップミュージック、特にロックの中に見られる、事象の神話化、そこへの失望、ニヒリズム、という構造を批判し、そこからの離脱の可能性を探ろうと思う。

ロックにおいてよく語られるのは、演奏者の内面が表出された音楽と深い関わりをもち、その連関がリアリティに結びつく、といった言説だ。ここで、個人的な経験を語ろう。ニルヴァーナの音楽は、カートコバーンの荒廃した内面が、強い表現衝動に転化し、それが軋むノイズと、違和感をぶちまけた歌詞として吐き出されたものだと評価されていた。私自身もカートの叩き付けた世界への違和感を、自分のそれと結びつけ、自己同一化を図る事で彼らの音に夢中になった。

その矢先、カートは自殺した。私は、前世代がイアン・カーティスに託したような神話が再び誕生した事をどこかで喜んでいたのかも知れない。そのおぞましさを知り、自らの希望やら絶望を安易にロックに託す価値観に絶望し、私はニヒリズムに陥った。

カートの死を経て、パールジャムやスマパン、ベックなどは「ニルヴァーナ以後」として語られた。しかし、そもそも「ニルヴァーナ以後」と問うこと自体ロック神話―ニヒリズムへの道程―の再生産ではないのか。確かに、エディ・ヴェダーが歩んだ歴史は、カートの死後どう苦悩を歌うのか、というテーマに彩られていたかもしれない。けれど、現在スマパンが解散し、またしてもロックの敗北が謳われるなかで、私達は歌い手の内面を探り、それがどこにも行き着かないことを再確認しつづけるのだろうか。それは、同じ物語の繰り返しに過ぎないにもかかわらず。

「『ロックにレボリューションは不可能である』それが日本のロックの見識である。だから無害でOKなのだ」(近田春夫 『考えるヒット』)
近田春夫がジュディマリの「くじら12号」を論じた中の言葉だ。彼は、ニヒリストなのではない。ただロックの神話化を疑い、「歌い手」の内面でなく、「うた」の内面を探っているだけなのだ。つまり、歌自体の構造や歌詞の響きに彼の批評は働く。そこには、わかりやすい物語はない。しかし、彼自身のリスナーとしての自前の言葉だけが、しっかりとある。私は、ここにニヒリズムを解体する一つの可能性を感じる。

つまり、私達に必要なのは、ロックを既成の文脈、物語の中で受け取る事を徹底的に拒否する事なのだ。フジロックがやたらとステージを増やし、ジャンル横断的なアーティストを中心に招聘するのには、可能性があるのだ。ジャンル内の枠組み、定まった聞き方等を拒否し、多様な音をそのまま受け取る事で、ロック村に自閉しない感覚を得ることが必要とされている。ヒップホップやテクノは、その可能性を示してくれたのではないか。神話の解体は、もっと推し進められなければならない。

 

 

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