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Adobeのハーバード・ケーススタディーからクラウド時代の経営変革を考える

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Google, Amazon AWS, Salesforceといった企業が切り開いてきたクラウドビジネスはエンタープライズIT産業の風景を完全に変えました。それは単にテクノロジーの進化という点に留まらず、現代の「経営」の基盤にも大きな影響を与えています。

この記事では、シリコンバレーの「老舗」ソフトウェア企業で、一般にもPhotoshopやIllustratorでよく知られるAdobe社の経営変革について触れます。ハーバード・ビジネス・スクールのケース・スタディ "Reinventing Adobe" (Gupta & Barley, 2014)を参考にしつつ、経営変革を成功させるポイント、クラウドが現代の経営において持つ意味、などについて考察していきます。

まず、結論から言うとAdobeの経営変革は大きく成功しています。

商品は3つのクラウドで分かりやすく整理されています(以下の表・グラフの出典はAdobe Investor Handout

Creative Cloud(Photoshop, Illustratorなどのクリエイティブソフトウェア)のARR*は、2012年以来大きく成長し、2015年で25億ドル(約2800億円)を越えています。

*ARR(Annualized Recurring Revenue): 年間の定期売上

買収を中心に「新たに」作り上げたMarketing Cloud(Analytics, CMS, マーケティングオートメーションなどのマーケティング支援ソフトウェア)のビジネスは2015年に売上15億ドル(約1700億円)に迫るレベルまで成長しています。

3月17日に発表された最新の2016年度第1四半期の決算も非常に好調で売上は四半期として過去最高の13.8億ドル(約1540億円)を記録しました。株価はここ5年で大きく上昇し、時価総額は477億ドルと5兆円を超える規模です。

Source: Yahoo Finance

では、この成功はどうやって成し遂げられたでしょうか。Adobeの経営変革のポイントは以下の4点です。

1. 経営変革のビジョンを定める
2. 買収を通じて新たなビジネスを「創造」する
3. ビジネスモデルを大胆に組み換える
4. ウォールストリートと巧みに対話する

これからそれぞれのポイントについて説明していきます。

1. 経営変革のビジョンを定める

2008年の金融危機後、Adobeは「成長の壁」にぶつかります。Photoshopをはじめとした既存事業は成熟し、新しい商品の開発にも失敗していました。そこで、CEOのShantanu Narayenは経営陣を集め、経営変革の方向性を議論します。(Gupta & Barley, 2014, p1)

まず、インターネットの普及で、写真や動画は爆発的な規模で共有され、コンテンツ作成の方法もデジタル化で変化を遂げ、さらに「データ」が鍵を握るようになります。コンテンツ作成の核となるソフトウェアを持っていたAdobeにとって新たな成長機会が多くありそうでした。

一方で、例えばTIMEのような雑誌はAdobeのソフトウェア無しには作成できないにも関わらず、彼等のビジネス全体のバリューチェーンへの関与は限定的でした。単に商品を販売しているだけで、その「プロセス」や「意思決定」にまでは入り込めていませんでした。

さらに、Adobeの顧客は広告代理店、出版社、マーケティング部門が中心で、IT化の進展で力を増していたIT部門には入り込めていませんでした。そこではIBM, Oracle, SAPといった「巨人」達が圧倒的なプレゼンスを誇っていました。

これらの認識を踏まえ、経営陣は3つの方針を定めます。

a. 既存事業の成長機会を逃さず投資し続ける
b. 新領域に買収で入り込んでいく
c. 新しい「顧客」を発見する

方針はシンプルですが、当時のAdobeのポジションを考えると色々と示唆があります。

まず、Adobeがクリエイティブ・コンテンツ制作のソフトウェア分野で圧倒的なシェアを誇っていたことが重要です。情報・ネットワーク産業の肝の一つは「エコシステム」の構築ですが、Adobeはこの「エコシステム」を長期に渡って構築していました。

がゆえに、デジタル化の進展でコンテンツ制作の「文法」が変わったとしても、強い「エコシステム」を新しい「文法」に合わせていくことで大きなチャンスと変わる可能性がありました。

さらに、上記したようにAdobeは広告業界やマーケティング部門といった限られたセグメントでビジネスをしていました。しかし、デジタル化の進展はマーケティング自身の姿を変えていきます。

煎じ詰めれば「データ」がマーケティングの鍵を握るようになります。Adobeはその変化をうまく捉え、買収による新領域への進出、IT部門との関係強化、などを通じてこの変化に対応していきます。

実際Adobeはこの3つの方針をベースに、具体的に経営変革に乗り出します。

2. 買収を通じて全く新たなビジネスを「創造」する

上記1.で定めたビジョンをもとに、Adobeは新領域のビジネスへと踏み出します。2009年にウェブ・アナリティクス分野で大きなシェアを持っていたSaaS企業Omniture社を18億ドルで買収したのです。

実は、Omnitureの経営陣は当初Adobeからの買収提案に懐疑的でした(Gupta & Barley, 2014, p3)。

というのも、Omnitureが地盤を置いていたのは一般に「エンタープライズIT」と呼ばれる企業向け(BtoB)市場だったからです。Adobeは一般消費者向け(BtoC)が強い企業であり、BtoBの企業とは思われていませんでした。

なので、Omnitureが候補としてあげていたのは、SaaSの盟主SalesforceやOracle, SAP, IBMといった「エンタープライズIT」の巨人達でした。

これに対し、AdobeのCMO Ann Lewnes はこう述懐しています(Gupta & Barley, 2014, p4)。

Omniture買収はAdobeにとって合理的な選択でした。我々の商品は人々がコンテンツを作るのを助ける。で、コンテンツを作ればその効果を「計測」したくなるのは自然ですよね?しかもOmnitureはトップランクの出版社や広告代理店、強いブランドを持った企業、などに広くリーチできていた。Adobeも彼等の商品を使っていましたし、デジタル・マーケティングが今後のトレンドであることもよく分かっていたんです。CMOとしての立場からも、代理店に聞いて回る必要なしに、マーケティング予算の効果が自分で測定できることは魅力的でした。

このように両者間のシナジーを強調するAdobeにOmnitureの経営陣も納得し、AdobeはOmniture買収に成功します。

一方で、株式市場は否定的でした。WSJは”Adobe buys Omniture: What Were They Thinking?"という強い口調の記事で、買収による2者間のシナジーに疑問を呈しました。

ここで、Adobeが取った対応が非常に大切なポイントです。

AdobeはOmnitureをCEO直轄の単独事業部として残し、Omniture生え抜きの経営陣をそのトップに据えて「自主性」や「企業文化」を尊重しました。そればかりか、彼等から「学ぶ」姿勢を強調します。

というのも、上記したようにOmnitureが展開していたエンタープライズITのビジネスは、Adobeにとって新たな領域だったからです。

こうした対応は一般的な買収ではなかなか起こりません。特に買収が頻繁なソフトウェア産業では、IBM, Oracleといった巨大なプレイヤーが有望なスタートアップを買収後に、トップをすげ替えたり企業文化の強引な統合を図って、商品開発や営業の核を担っていた人材の離反を招き、結果として買収時の価値が失われるというのはよくある光景です。

CEOのShantanuは以下のように語っています。こうした姿勢が成功を導いたわけです。

Omnitureは業界のリーダーでした。なので、マネジメントチームをそのままにしておくことが、成功の鍵であることを我々はよく分かっていたんです。買収は難しい。常に真剣に取り組んで、うまくいくための「ポイント」を外さないことが重要なんです。

3. ビジネスモデルを大胆に組み替える

ミッションを定め、買収を通じて新たな領域へ参入し、Adobeの改革は本格化していきます。続いて、クラウドビジネスの肝と言えるサブスクリプションモデルの導入にAdobeはいよいよ踏み込みます。

ソフトウェアの販売は"パーペチュアル"と呼ばれる、一度ソフトウェアを買えばずっと使えるパッケージ販売モデルが主流でした。昔はPhotoshopやMicrosoft OfficeのCDが箱に入って売られていたのを皆さん覚えていると思いますが、あの売り方です。

それに対して"サブスクリプション"と呼ばれる定期(主に月額)課金モデルがあります。Salesforceに代表されるクラウドでソフトウェアを提供する企業は、こちらのサブスクリプションモデルが主流で、大きく成長していました。

Adobeのこの当時の課題をCEOは以下3点にまとめています。

1. 商品の価格が高すぎてこれ以上の拡大が見込めない
2. プロ以外の消費者にはソフトウェアの習得が難しすぎる
3. 過去の成功が大きすぎてより広いバリューチェーンでのビジネスをうまく検討できていない

この課題を踏まえ、Adobeは2011年に"Creative Cloud"と呼ばれるクラウドを通じて19種類のソフトウェアが、デスクトップ、モバイル、タブレットなど複数のデバイスで使える包括的なサービスを打ち出します。

販売形態はサブスクリプションが主で、個人は$49.99, チームでは$69.99の月額で全てのソフトウェアが使用できる契約となり、パッケージ販売の時の値段の$2,599と比べて大きく値ごろ感のある価格戦略を取りました。

これによって、今までAdobe製品の敷居の高さや価格に尻込みしていた消費者にも製品が広がります。さらに、既存の「プロ」ユーザーにとっても、クラウドで頻繁に製品アップデートが行われ最新のツールが使えること、今まで使ったことのなかった製品も包括的なクラウドサービスによって触れる機会を得られるようになったこと、などから商品の価値が上がりました。

この結果、以下のようにサブスクリプションモデルの契約数は1年で5倍近く(47.9万)拡大します(Gupta & Barley, 2014, p9)。

この成功に自信を深めたAdobeはさらに改革を進めます。2013年の自社カンファレンス(MAX)で、パッケージでのソフトウェア販売を全て中止し、今後はクラウドでの提供のみとする、と発表したのです。

これは非常に大胆な決断です。Adobeは過去に大きなインストールベースを持っており、その顧客がこのクラウドへの全面移行に伴い離反すれば、将来の売上を失うことになるからです。

現にMicrosoftはこんな声明を出しています。

Adobeのように、MicrosoftもサブスクリプションによるSaaSモデルが「未来」だと考えている。しかし、Adobeと違い、我々はパッケージ販売からサブスクリプションへの移行にはもう少し時間がかかると見ている。そのベネフィットは大きく、10年以内には、みんなサブスクリプションを選んでいるだろう。しかし、現状では、パッケージ型でソフトウェアを売り、関連サービスはサブスクリプションで売る、という形でいきたい。

しかし結論から言うとAdobeは賭けに勝ちました。この発表のあとにもサブスクリプションユーザーは増え続け、それはAdobeが想定していた以上のレベルでした。

ここはクラウド時代における経営の最大のポイントです。クラウドは顧客との「長期的」かつ「より深い」エンゲージメントを可能にするのです。

以前のように2年おきのアップデートでのパッケージ販売だと、どうしても目標数量を売るための販売者側の都合が前に出てきます。

一方で、クラウド+サブスクリプションモデルの場合、契約期間内に顧客が製品に満足しているかが契約更新を決めます。なので、販売者側にも、普段から顧客が満足する品質やサービスを提供し続けるインセンティブがあるわけです。

この構造に加えて、クラウドは頻繁な製品アップデートを可能にしますから、顧客の要望にきちんと耳を傾けながら、短期かつ頻繁なアップデートでその要望を叶えていくことが可能になります。

Amazon AWSが圧倒的な成功を収めているのも、基本的にはこの構造によります。クラウド、というとテクノロジーの観点から語られることが多いですが(またそれが重要なのは間違いないのですが)、より本質的には上記のように「顧客価値の向上」にごまかしなく向かい合える、というのが実は一番重要なポイントです。

このCreative Cloudの成功と並び、Omnitureの買収をきっかけに、ウェブコンテンツ制作、マーケティングオートメーション、動画配信管理、などのソフトウェア企業を立て続けに買収し、これらをMarketing Cloudとして統合します。

結果として、Adobeにとって新しい領域だったエンタープライズITでも、Marketign Cloudは大きな成功を収め、ここでも事業変革の方針通りに「実行」できたことになります。

4. ウォールストリートとの巧みな対話

1.-3.で見てきたAdobeの変革の基盤を支える要素として、最後にフィナンシャル・マネジメントの点に触れたいと思います。

ご存知のように、アメリカでの投資家の圧力は非常に強く、「四半期ごと」に彼等が予測する売上やEPS、経営にとって重要なKPI、翌期以降の業績ガイダンス、などに企業業績が達しない場合は、容赦なく株が売られます。

よって、Adobeのような事業変革を成し遂げるには、ウォールストリートといかにうまく対話して、彼等に変革の内容と計画を十分に納得させ、その計画通りに実行し業績を出していく必要があります。

これは「言うは易し、行うは難し」です。しかし、Adobeはこの点もうまく乗り切ります。

以下は2012年~15年の売上と営業利益率(Operating Margin%, Non-GAAP)の推移です(出典はAdobe Investor Handout)。2013年に売上と営業利益率が大きく下がっているのがわかると思います。

ここがポイントで、パッケージ販売からサブスクリプションに変わると短期的には売上と利益が下がります。サブスクリプションは薄く長く回収していくモデルだからです。

通常こうした売上と利益の減少についてウォールストリートで理解を得るのは難しいです。しかし、Adobeは、今は事業変革中であり短期的には業績が下がるが長期的には必ずうまくいく、ということを別の指標で示すことで市場の説得を図ります。

それがARR(Annualized Recurring Revenue)です。これは簡単に言うと、既存のサブスクリプション契約から見込める1年間の売上、です。サブスクリプション契約の解約率は通常あまり高くないですから、この数字が積み上がっていけば、安定した売上と利益が見込めることになります。

それを示したのが以下のグラフです。2012年に27%だったARR比率は2015年には74%と大きく上がっています。

この指標に市場の関心を向けさせ、着実にサブスクリプション契約を増やしていくことで一度下がったAdobeの売上と利益は再度増加していきます。

上に挙げたグラフを改めて見ると、2013年に$4,055M, 23.1%まで下がった売上と営業利益率は、2015年には$4,796M, 28.9%と売上については2012年を超える規模となり、利益についても順調に回復してきています。

このように、ウォールストリートとうまく対話することで、市場からの圧力に耐え切れず改革が中途半端に終わる、というアメリカ企業によくある事業変革の課題をAdobeは乗り切ったと言えます。

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以上4つの観点からAdobeの事業変革を見てきました。

ポイントは彼等が「実行」と「顧客価値」にきちんとフォーカスできていたことだと思います。企業経営では、お題目としての計画が実行されない例は枚挙に暇がないですし、顧客価値がお題目になっていることもまた多いからです。

【参考文献】
Sunil Gupta & Lauren Barley (2014). Reinventing Adobe. HBS No. 9-514-066. Boston, MA: Harvard Business School Publishing.

Adobe Investor Handout, January, 2016
http://wwwimages.adobe.com/content/dam/Adobe/en/investor-relations/PDFs/ADBE-Investor-Handout-Jan2016.pdf